昭和51年11月17日 朝の御理解
御理解 第19節
『金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。』
大変に疑問を感じます御理解ですね。「金光様」と唱えるところに、金光大神取次ぎの働きが、まぁいわばありますということでしょうけれども。昨日こちらに半年余り前から、日田の奥の方から参ってみえる方があります。一年前ぐらいから。こちらにお参りをさしてもらう前にある教会の総代までしておられる模様です。お参りをするようになって、もうほんとにこんな事言うちゃなりませんけれども、おかしいですけれども、あのう他の商売をなさっておられる。
そこの同業の者がもう不景気とか手形が落てんとかとまぁいろいろ聞くと、私の方はもう金が面白いごと入ってくる。それはここへご神縁を頂いてお参りして来る様になってからそれでございます。特に家内がこの前のここの婦人大会に参加さしてもらって、ほんとにこげな有り難か神様。まぁお父さんの参られる教会に、何回か参った事があったでしょうけれども、「あげな神様は信心せん」と言うそうです。全然もう言うても言うても参らななかったのが。
こちらにお引き寄せ頂いてその前に来て頂いて、婦人会の事を大会の事を聞いてお参りをした。もうそれ以来というものは体がたいへん、胸の病気があとがあって、じっとしとかにゃいかんと言われもう朝からもう晩まで、もうちんちろ舞いして働きます。もうそして、「有り難い勿体無い」と言うて働いて、また家内がここにおかげを頂くようになって、この方もう尚更店が繁盛いたしました。もう本当に人が不景気とか売れんとかちゅうと、うちだけが売れよるっちゃ言われんごたるですけれども。
そうしたおかげを頂いておりますから、お礼やはり申し上げなければおられないというわけです。そしたら私はお届けをさしてもらいよりましたら、「金光大神不在」ということを頂いたね。金光大神はおりなさらんという。だから「金光大神不在」ということは、例えばんなら、その教会に金光大神がおりなさらんと言った様な」場合もあるかもしれんけれども、やはり自分の心の中に金光大神を頂いていないということです。
皆さんが例えばね、金光大神ほんとにどこへ行っても「金光様」を唱えるところに、金光大神は「形がのうなったら、来てくれてと言うところへ行ってやる」と仰せられるのだけれども、あながちそうばかりじゃないと。金光大神が来て下さらない。いや「金光大神不在」になっておる。そこを私はどういうことかというと、金光大神がおりなさらんわけはないでしょうけれども。もう不在と同様だということでしょうね。おかげが受けられないということは。
昨日ある方のお取次ぎをさせて頂いておりましたら、めぐりに引っ張られて、信心がここまで出来たという意味の事を頂いた。めぐりに引っ張られて、まぁ言うならここまで信心ができた、分かってきたというのです。してみるとそのめぐりに引っ張られてから、信心が進んだということは、それはめぐりのおかげで、信心がここまで進んだということになるですね。善光寺山参りではないですけれどもね。牛に引かれて善光寺へ参るちゅうのがあります。
信心も何も知らなかった老婆が、牛が、おばあさんが洗濯をしておりますね。そこへ一匹の牛が現れて、角に引っ掛けて洗濯物を持って走って行った。で牛の後から追いかけてまぁ行ったら、その牛がお寺の中にに入ったというのでね、で牛に引かれて善光寺参りそれから始めてお寺さんに入った。始めて教えを受けた。始めて南無阿弥陀仏を唱えたというのです。皆んなが難儀のことから、神様へお参りをしてくるのも、やっぱり同じようなことが言えるのじゃないでしょうか。
いわゆる牛に引かれて、いわゆる牛はここではめぐりと言われるが、めぐりに引かれて善光寺へ参り。めぐりに引かれて合楽参りがでけた。そこで私はその難儀を難儀とみておる間は、ほんとのおかげにはならない。言うなら生神金光大神の働きというものは、生き生きとした言うならば心。または生神金光大神の働きを信じておる心。そういう心にでなからなければ、金光大神は居られんのも同じです。生き生きとした心。その生き生きとしたその心というのが。
始めて合楽にご神縁を頂いて、そういういわば道理を分からせてもろうて、心が有り難くなり心がね、喜びでいっぱいになる。その喜びが金光大神の働きを働きたらしめるのであり、金光大神の取次ぎの働きを信ずるところにしか、金光大神の働きは現れない。金光大神の取次ぎの働きも分からず、生き生きとした心もなく、それでない限り「金光様」を唱えても、神様は不在と同じような結果になる。いくら唱えても同じ。そこで私共がいよいよ分からせて頂かなければならないことは。
難儀と思うておることそのことがめぐりのせいだと、まぁ思うとりますけれども。そのめぐりに引っ張られて合楽参りができたのですから。それはめぐりではなくて牛ではなくて、「神様がおかげを下さろうとする働きである」と信ずることであります。だからほんとに難儀なことを難儀なことと思うとる間は、金光大神は来て下さらん。そこまでの過程に、まぁ言うならば生き生きとした心。前の婦人大会があって、まぁだいぶになりますけれども、その言うならば生き生きとした心が、切れてない枯れてない。
そこに生き生きとした神様の働きを頂いて、おかげを受けておる。どうも商売が不振である。言うならば金光大神の働きをそこに受けていない証拠なんです。そこでなら自分の心を検討してみて、生き生きとしたものがないことをまず知り、同時にやはり難儀を難儀とみておるという、めぐりをめぐりとみておるというところに、生きた働きを受けられない。難儀じゃないめぐりじゃない、信心をここまで引っ張ってきて下さろうとする神様の働き以外にはない。
金光大神が、例えば金光大神を唱えて、なら来て下さっても。言うならば取次ぎの働きというものをそこに見ることも感じることもできないならば、来て下さっても言うならば「金光大神不在」と同じことになる。金光大神の例えば働きがそこに感じられる。そこにはっきりおかげが現れてくる。始めて金光大神に来て下さる金光大神。ここでは皆さんが金光大神と言うよりも「親先生」と言うた方が早うおかげを頂く。というそのひとつの傾向がございます。
最近合楽の生神様とか、また親神様などと言う様な人達が何人も出来て来た。やっぱりそうですね、「生神金光大神は天地金乃神と同根」と仰るのですから。やっぱり天地の親神様の働きというものが、というてもいいわけです。んなら金光大神に私どもが帰依して、生神金光大神の働きをそこに信じきって、私が例えばおるとするならば、私をなら生神様と言うても親神様と言う程しのいわば、人の思い込みというものがあるならば、金光大神の働き、天地金乃神様の働きが現れる道理であります。
「成り行きを大切にする」「成り行きを尊ばせて頂く」と同時に、私は成り行きを願わなければいけない。私共が例えば天地の親神様と言えば、何千年・何万年も、それこそ天地悠久の昔から天地の親神様はござる。途中からできられた神様ではない。そういう神様の目から、私共の一生なら一生をご覧になる時に、それはもう本当にもう、粟粒よりももっと小さいものだろうとこう思います。ですからそういう大変な親神様。ですから例えば天変地変と言った様な事があります。
大風が吹いたり、または大地震が起こったり、沢山の人が死んだり。もう天地の親神様が「氏子可愛い」という思し召しなら、そういう大風やら大地震やら。もうたくさんの人が一遍に死んでしまうと言った様な事はあってはならないように思う。ところが神様の目からご覧になると、それはもう私共の人間の上に起きてくる様々な難儀な問題、ね。金が足るの足らんのというたり病気したりと言った様な、もう事ぐらいにしか匹敵しないだろうと思います。天地の親神様は。
だからそういう天地のすさまじい働きがあっておるのですから、いつどう言う様な事が起こらんとも限りません。そこで例えば風が吹くというならばです、どうぞ風によけてもろうたり、風に高い所を吹いてもろうたり、直接その風に当たらんような願いというものがなされなければならんというのです。一人は風に吹き飛ばされるとか。地震で例えば沢山な家が潰れたり人が死んだりすると言った様な事は、もう神様の目からご覧になれば、それはもう、ほんとに些細なことなんです。
けれども私共にとっては大災難であり、大変な難儀な事ですから、ね、成り行きを願わずにはおられないわけです。そこでなら起きてくるその成り行きというものがです、私が受けられる、私で頂けれる位なおかげを頂かしてもらうということです。それこそ目の前が真っ暗になるようなことではなくて、言うならば百の災難がかかってきよってもです、それを言うなら大難を小難に、小難を無難にという願いがそこになる訳です。
それは私共と金光大神、金光大神と天地の親神様の間の距離というものがね、そんなにおびただしい開きがあるのですから。あるいは欲な事を願うとか自分の側のことを願うと言った様な事ではなくて、そこにね金光大神のお取次ぎ働きというか、言うなら金光大神の天地金乃神様から受けておられるご信用というか、金光大神のお取次ぎをもって、言うなら大難を小難、小難を無難にという願いを、成り行きを願い成り行きを尊び、成り行きを大切にさせてもらうけれども、成り行きをだから願わなければいけない。
願って起きて来る事それはだから、私共がどうでも受けて行かなければならない。本当に大難を小難に、小難を無難で、又は今日もおかげを頂いた。又は大難を小難でおまつりを頂いて有り難いという受け方。そういう受け方が成り行きを大切にするのであり、尊ぶのであります。昨日ちょうどその宇都宮さんと前後して、豊後森の坂井さん達が夫婦でお参りしてみえました。福岡に行ってあちらへずっと帰ってみえるんだけれども、遠回りになるけれども、まぁお参りせんとまぁ良い事が起こられん。一遍にそういうことがあったら悪いことが起こった。
それで「ここを遠回りをしてからでも、今日はお参りしよう」と言うて参ってみえた。まぁ、ちょうどここで研修をしとります時でしたから。もうあの方のお届けを聞かしてもらいよるともう、腹抱えて笑わなおられんような表現で話されます。「この神様は難しい神様だ」っちゅう。大祓五巻あげるのと十巻あげてと、ころっとおかげが違う。もうこれはだからもう新聞を読む暇もなか。もう新聞読む暇を大祓をあげる。朝五巻、晩五巻、この頃は夫婦であげよります。
あげりゃあげるしこやっぱおかげを頂きます。もうだから新聞を見る暇がないけん、その新聞を見る暇をつくろうと思うけれども、忙しくて見る暇がないという、それはまたとてもおもしろい言葉でその話されるんです。例えば神様を信ずるとか、または金光大神を信ずるとか。神様の働きを信ずるとか。またはめぐりと思うておった難儀と思うておったのは、それはめぐりではないそのめぐりのおかげで、信心を引っ張ってもらうんだと思うたら、それがめぐりでもなからなければ難儀でもない。
神様がおかげを下さろうとする働きだと。だからそこにあるものは、お礼だけしかないという信心。または生き生きとした信心の喜び。だからそういう例えば難しいことは分からなくても、例えば遠回りしてでもやっぱ参りゃ参ったごとある。五巻よりもやはり十巻あげた方が、新聞の読む暇の時間がなくなるぐらいな事じゃない、はっきりおかげを頂くという。そこにいわゆる金光大神が来て下さって、お取次ぎの働きをして下さる。そういうあり方に金光大神が現れて下さると言う事が分かります。
だからいつも少しは増しな修行をさせて頂いてもらうという、そういう言わば心がけに金光大神が来て下さる働きがある。同時に私共がスッキリと、難儀様のおかげじゃなくて、めぐり様のおかげではなくて、その難儀と思うておっためぐりと思うておった、それが私をここまで引っ張って来て下さるのであるから、それがおかげであると私共が実感されれるような心に、金光大神の働きはあるのです。
私共がいわゆる信心がマンネリというかね、言うなら心の中にひとつも瑞々しい有り難い、生き生きとした神様を信ずる働きというものが薄うなってくる。そういう心には金光大神不在も同じ事になるのです。本当に「金光大神」唱えるところに、金光大神の生き生きとした働きがそこに頂けれるおかげを頂きたい。その為にいよいよ成り行きを尊ぶとか大切にするということと同時に、成り行きを願う信心。だから成り行きを願うてからの成り行きですから。
とてもまともに受けたら受けられない様な事になってはなりませんから。神様の働きが、私で受けられるより大難がかかってきよるならば小難に。小難がかかってきよるなら無難にと言う様な願い。そこに願うて起きてくるその事を、いわば神様の下さった働きとして頂く事の出来る。お互いの心の中に金光大神が、言うならば「来てくれと言う所には行ってやる」と約束しておられるけれども、こちらが無味乾燥な心で「生神金光大神」を唱えてもおかげにはならない。
そこで例えば、なら「親先生」とこう唱えるところに、生神金光大神がそこに現れて下さるということは、親先生の信心を信じる。親先生のお取次ぎの働きを信じる。それはそのまま生神金光大神を信ずるということになる。それは私と金光大神がつながっておる限り、天地金乃神様と金光大神を通して繋がっておる限り、「親先生」と言えば親先生の一心の祈りというかね。そういう働きが受けられるわけです。それは実は親先生じゃない、金光大神の働きですけれども。
金光大神と親先生が繋がっておる限り、同んなじ働きを受ける事が出来る。そこで始めて、「この教会には金光大神不在だ」と言う様な教会では、いかにそこの先生が金光大神と繋がってござらんから、おかげが受けられないということになるのじゃないでしょうか。そういう意味で、合楽の場合は、皆さんがそこのところを信じて、信心なさる限り、「親先生」というところに、金光大神が来て下さる。そして生き生きとした働きを受けることができる。
ただこの十九節を請負的に、ただこれを読んだだけでは、確かなものが自分に頂けない。だから本当に金光大神は、来てくれと言う所に来て下さるかどうかを試してみなければ、試してみいというとなんですけれども。本当にこちらの心が一瞬に生き生きとね、難儀は難儀ではない、有り難いと言った様な心でです、金光大神を唱えた時に、そこにはっきり金光大神が来て下さるなぁ、お取次ぎの働きを現して下さるなぁ、ということを体験して始めて、この十九節が生き生きとしてくるのです。
もしでないならばです、これはねもう実に嘘のような御理解になります。言うなら無味乾燥の心で「金光大神」を唱えても、それこそ無味乾燥な金光大神しか現れなさらんですから。どうでもひとつ工夫さしてもろうて、金光大神の来てくれと仰るなら、本当に来て下さるんだということを、四六時中信じておれれるようなおかげを頂く時に、神様の言うならご守護の、あり通しのおかげが受けられるということになります。
どうぞ。